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舟運によって栄えた港町・伏見の歴史

淀川の舟運は神武天皇の時代に始まり、豊臣秀吉の時代に本格化します。
以降、時代の移り変わりとともに京都〜大坂間の舟運は栄えていきました。
その拠点となった町が伏見であり、淀川舟運の発達が、伏見を繁栄に導いた大きな要因といえるでしょう。


安土桃山時代の伏見

宇治川に着目、「伏見港と舟運」の起点を築いた豊臣秀吉
  • 豊臣秀吉の伏見城築城により、伏見は城下町として繁栄しました。その一方で秀吉は宇治川を改修し、この地に港の機能を持たせます。
  • 当時は、伏見〜大坂間が淀川の舟運、伏見〜京都間は陸上交通というのが一般的であり、伏見は舟運と陸路の中継点として重要な役割を果たしていました。淀川には秀吉が運航許可を与えた過書船が行き来していました。

伏見の変遷
平安
時代
1069〜
1074年(延久年間)
和歌などに「伏見」の地名が登場する
安土
桃山
時代
1594年(文禄3) 秀吉が伏見城の築城を開始し、同時に城下町の造成を行う
城下町造成にあわせ、宇治川の河道改修や港湾整備を実施する
1598年(慶長3) 淀二十石舟と三十石以上の大船は、秀吉から朱印状を与えられ、過書船となる
伏見を中心とする街道の整備をすすめる


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江戸時代の伏見

高瀬川により大坂と京都が結ばれ、舟運の拠点としてさらに繁栄
  • 河川開削工事の大家でもあった京都の豪商・角倉了以が、1614年(慶長19)に高瀬川を開削しました。これにより、高瀬川を通じて伏見から京都へも舟で輸送できるようになりました。
  • 伏見港は伏見と大坂を航行する過書船、伏見と京都を行き来する高瀬舟の発着点となり、舟運交通の中継拠点としてさらに繁栄を遂げていきました。

伏見の変遷
江戸
時代
1611年(慶長16) 角倉了以が高瀬川の開削を開始する
1614年(慶長19) 高瀬川開削工事が終わり、伏見〜京都間が舟運(高瀬舟)で結ばれる
1624年(寛永元) 伏見城が廃城となる
1661年(寛文年間) 過書船と高瀬舟の中継地として、伏見・南浜付近が繁栄する
1698年(元禄11) 伏見船200隻の運航が許可され、宇治川の舟運を独占してきた過書船にとって脅威となる
建部内匠頭が伏見奉行となり、脇坂中務少輔の屋敷跡を「中書島」とし、一大歓楽街を築く
1830〜
1844年(天保年間)
伏見港の船は、過書船740隻、伏見船200隻、淀二十石舟507隻、高瀬舟185隻を数える
伏見の人口は、4万980人を数える
1862年(文久2) 寺田屋事件
1868年(慶応4) 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)
高瀬川一之船入跡

淀川筋船舶図(大坂〜伏見間の伏見の図)

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明治以降の伏見


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国土交通省 近畿地方整備局 淀川河川事務所